このところ、シクラメンを日光にあてている。部屋の中にいるだけでは腐っていくのではないか、と、不登校の子どもをもつ親のような心配をもってのこと。我が家の室内は、日の当たる時間が短い。朝も過ぎていくと、日の光が入らなくなってしまう。そのため、かれらには悪いが、寒いベランダの外に出して、太陽を浴びてもらう。

朝目覚めたころに見るシクラメンは、心なしか少し色の薄い気がする。覇気がない、と言うと少し厳しいが、ハリがみられないのは事実。一転、日の沈みかけたころ、ようやく外から持ち帰るときには、ひとふさひとふさが、ピンと背筋を伸ばした先に、色鮮やかな色を見せびらかしている。元気だ。ハリもある。イキイキしている。私は情が入りやすい人で、シクラメンのかれらにもまた、その単純なさまに、愛くるしさを感じてしまう。

 しかし、いくらシクラメンを愛でたとしても、その鮮やかな朱色に熱を抱いているとしても、ぽかぽかと暖まる陽気は一向にこない。しかも、窓の開け閉めに難がある。今日はどれほど寒いのだろう、と、部屋の窓をがらっと開けるにも、きいきいと鳴ってしまうのだ。甲高くて鋭い音が、尖った冬を呼び寄せる。この窓は、シクラメンを出し入れするときにも使うのだ。なんとかならないかな、この窓の軋み。

 早く、本来の春がやってきてほしい。ただ複雑な気分でもある。暦から見れば、くっきりと春なのだが、しかし春はまだ遠い。その季節になれば、風景がぽかぽかと柔らかくなり、花も咲き、そして、複数の強い感情が、一斉に立ち上ってくる。この、感情の面は、とても難しい。広告を見るに、華やいだ気持ちが前面に押し出されているのだが、本来はそれだけではない。喜怒哀楽、その4種のなかを行ったり来たりする感情、その往来の感情のまた細部の揺れ、と多様なことだろう。その多種多様な揺れが、がなり立てるように主張しあうと考えると、自分のことながら、大変だなあ、と他人のふりを決め込みたくなる。それほど、大変なことに思えてしまう。

暖かくなることの弊害ともいえるかもしれないが、そうなれば、厳しい寒さは、感情を締め付けるものなのだろうか。転じて、暖かさは感情を緩めるものなのだろうか。心の揺れの手なずけるやり方が、とんと分からない。しょうがないのかなあ、と呟きつつ、できれば楽しめられたらいいのに。しかし今は、せめてシクラメンでも、シクラメンのかほりでも嗅いで、ああ、シクラメンのかほりだわ、なんて思ったり。