少しだけ、私を可哀想で悲痛な場所に置きたくなることがある。そう感じるのは、大抵深夜を迎えたころだ。私を真っ暗な場所に落としたら、何が見えてくるのだろうか。知らない私の姿が、晒されることにならないか。その場に私が立ち会ったら、私はどこへ行ってしまうだろうか。多くのほの暗い好奇心が、止まなくなってしまうのだ。

 私は思索が好きではない。にもかかわらず、時間が空いたとなれば、あらゆる考え事に忙しない。その内容といえば、大半が空想の域だ。現実的なことなど、ほとんど「思索リスト」に入れていない。まったくわが身に降りかからないこと、到底成し得ないことばかりを頭に上らせ、一喜一憂を繰り返す。言ってしまえば、およそ時間と労力のムダなのだ。それは、夏休みの日記に悪目立ちする空白ページを埋めるべく、嘘で塗り固めた日記を書くのが楽しい小学生と変わらない。宿題が出せるだけ、小学生のほうに分があると考えれば、私の思索癖はいよいよ意味がないことがはっきりと見えてきた。

 それなのに、上記のような「書くだけムダ、さらには読むだけムダ」な文章を書き連ねてしまう。「見せるだけ、見えるだけムダ」な思索にふけることを止められない。そのことに、「なぜ?」と疑問を抱いてしまうこと、それこそがムダの思索の始まりなのだから、自分の思考回路にも隙がないのだ。ああ、疲れる。

しかしながら、「疲れる」と言っておきながら、すでにそれの考えを巡らし始めてしまった。そしてとうとう、いつのまにか、ひとつの答えが出てきてしまった。しかも、その答えがあまりにうす暗い。そもそも、だいたいの答えに、明るくなったためしがない。ならば考えなければいいのだが、考えない方法があるなら初めから考えるはずがないのだ。

この文章を書きながら、私のなかにある複雑な感情が、ぐつぐつと煮えてしまった。それは、おそらく解消には多くの時間を費やすような、「退屈」と「憂鬱」と「屈折」を混ぜ合わせたものだ。味がしないジャンクフードを食べたときの、安価な享楽にふける妥協さえ裏切られた、あの気分だ。もやもやした気分の落としどころがない。

 そこで、散歩を強く望むのだ。深夜に差し掛かり、そのような気分がせり上がったときに、歩きたい。深夜でもいい、夜が明けてもいい。ずっと歩き続けていたい。道を折れるも真っすぐ進むも、どちらでもいい。

特異な時間である夜は、すべての理性も利かなくなる。だからこそ、私は大きな期待を抱く。暗闇に隠れた身体が、心が、おそらくその黒さに恐怖しながら、どう変化していくだろうか。すべてが隠れたと思われた私そのものは、本当にすべて隠れただろうか。もし、すべて包むその黒さに安堵し、油断してしまったら、私は暗闇に掴まれ、奪われ、さらわれるのだろうか。

 なぜ、このようなことを考えるのだろう。決して何もしない。ただ考えるに留める。