2017年05月

 湿った夜風が、レースのカーテンをふっと揺らす。レースの格子のあいだを通り抜ける。部屋にふわっと入り込む。多少の湿気は、カーテンが絡めとってくれたのだろうか。湯船からあがったばかりの身体を、涼風が撫でていく。ある年の12月によく聴いていた曲を思い出した。歌いだし。ひとかたまりの歌詞の衝撃。タバコでも吸いつつ、または酒の酔いを残しながら、真夜中のベッドの上でまどろむ、くらいの情緒でもって生まれたような出だし。



 こののろいから とかれる日はくるの?
 あの魔法は もう とけてしまった?
 『呪い』 - YUKI



 馬鹿になったみたい。と、冷笑するばかりの考え事をおっぱじめては、「あ、無駄だった」とまた笑う。最近は、身体のことで頭を悩ませる。私の身体、誰かの身体、実体のない身体。「身体」を知りたいからか、書店で買う本は「性」を理性的に扱った内容のものが多い。読んでは考え、また本を手に取る。この繰り返しは果たして止むのだろうか。もしかしたら、いつまでも止められないままかもしれない。余計なことか、と頭を横に振って、また読みふける。読むだけではなく、動きはじめている。身体と心を動かしている。言葉と身振りと思考を使って、可能な限り、私の、誰かの、実体のない「身体」を知る。


 生活することに実践は外せない。そして、のんびりと、ぐるぐると、頭を稼働させることが、生活のすべてではない。ひとつの区切りとして、そう、結論付けておこう。……と、そう思いたいのは、考えるだけの日々を終えて、楽になりたいからだった。でも、それは急に切り替えられるものでもない。かといって、動かないわけでもない。マルチタスク。マルチタスクの自身に、少しだけ疲れてしまった。身体が火照ってしまった。これでいいのだろうか、いや、たぶんこれはよろしいことではない。焦りがつのり、自責も堆積していくのを感じる。


 ただ、そのようなせわしい日々もいつかは、本当に一区切りがつくだろう。その日が来るまでの辛抱。いっそのこと、魔法が解け、呪いを一身に受けてみたい。そのためだったら燃焼物として燃えてカスになってしまってもいい。ああ。ここは耐えるところだ。楽しく耐えて。

 威勢よく眠ろうとしたが、そもそも元気なころに意識を飛ばせるはずがない。いくばくかのチャンスはあった。魂が身体から抜けはじめた感触や、両手両足が、時間をかけて透明になっていく実感もあった。それなのに、いやそういう局面だからこそ、ついつい欲が出てしまう。「あ、いけるな」と思ってしまった。これは楽勝、落ちるだろ、と、油断の表情を見せてしまったのだ。そうなってしまってはおしまいだ。我を出してしまうと、眠りからは遠のいてしまう。そして私は、部屋の明かりをつけるに至った。あともう一歩のところだったのに!今となっては、まったく眠気がない!


 日付は代わるも昨日の延長だ。しかし考えごともとくにない。どこかに置いてきてしまったような、空白のある心の静けさがあるだけだ。足りないものはない。溢れるものもない。欲しいものも、捨てたいものも、思い当たらない。ほどよく満たされている。過不足がない。でも、たしかに空白がある。どうしたらこの空いた1ピースを埋められるのか、途方に暮れる。いや……ただ眺めている、ような感覚か。以前よりも寂しさや孤独感は、大いに少なくなった。それどころか、ひとりでいながら、親しい人たちの心強さを感じているほどだ。寄る辺のない現状でありながら、かつてない充足感。不思議な意地。……なのに、惜しいなあ。


 深夜のラジオを聴いている。こんな時間にひとりだからこそ、大胆かつ下品に笑っている。

 とにかく暇をしているときがある。ただただ何もすることがなく、手持ち無沙汰がピークに達したようなときだ。時間をドブに捨てているように思えるも、それでもせっせと時間を手放し続けるあの気だるさ。しかし心の底では、しなければならないこと、課されているものを知りつつも、静かに重石で蓋をする、あの煩わしさ。腐っていくのではないだろうかと焦りつつも、陳腐化を止める気も本腰ではない。


「何がしたいんだ!」
「……何もしたくない!」
「じゃあ何もしない?」
「……いや、何かしらはしていたいかな……。」


 だいたいこのような会話、で済ますことができる時間。ぐずぐず。煮え切らない。でもちょっとだけ気楽。いや真綿で首を締められているかも。どっちに行くのか。どっちつかずだ。わかる!わからない!そうだ!そうか?……の繰り返しを、手のひらで転がしている。とことん暇でないとできない。


 と、自分にとっての局面がやや変わった実感のある今は、少し、のほほんとしたとことん暇な気分を、また味わいたいかもなあ、と、思わないでもない。でも「思わないでもない」程度なので、なくてもいいや、くらいのものでもある。ふと、ちょっぴり書きたくなったので。

5月も半ばに入った。天候が揺れに揺れる。暑さに適応する準備をはじめた途端、肌を逆なでするような寒い日々が訪れる。中間がない。ちょうどいい日がない。おかげで、のどの奥に若干の違和感がある。頭もくらっと揺れる。風邪の手前も手前の体調だ。若干怯えながら、対処療法的に明治R1を飲んでみると、健康体にリセットされた気になる。病は気から。気さえ整えればどうにかなる。その気が整う兆しが見えないから、こうやって話していても説得力がまるでない。ああ、気を整えよう、最善を尽くそう……。


話は代わる。私には、聴くと様々な思いに駆られる1曲がある。くるりの『東京』だ。ふと聴いたラジオで、くるりの『東京』が流れた。あの曲が好きだ。とくに琴線に触れるのは、抒情的な歌詞と、それに絡みつくような粗いサウンドだ。ひたすら感傷的にさせるとともに、「ひとり」を肌で感じさせる、少しだけ怖い曲。そんな強い印象がある。


しかし、私はきっと、『東京』の大部分を思い知ることはできないだろう、と感じている。この曲の出だしの歌詞から、そう察するしかなくなる。私はこの曲とは遠いところにあるのだ。上記の印象を超える共感はできない。東京に生まれ育った者には、『東京』の内部に誘われないし、立ち入れない。「東京の街に出て来ました」。このフレーズは、不必要な嘘をつくことを除けば、口にすることがないのだ。


東京に上京してきた人々のことがわからない。どういう思いで東京にやってきたのか、また故郷から出てきたのか、故郷にはなにを残してきたのか、またなにを繋いでいるのか。東京出身の私が考えても及ばないことは、挙げたらきりがないだろう。また、「東京に上京してきた者」「東京出身者」と、ひとりひとりの人生をひとくくりにすることも、暴力的であることも感じている。ただ、それでも、わかり得ない一線が、かれらとの間で引かれている感覚が、痛覚に似たものとしてあるのだ。


大学時代に、ひとり暮らしをしている学生がいた。かれらの大半は、関東地方から北部にある地域の人で、新潟や東北の各所から、埼玉の地までやってきた。ひとりで衣食住の生活をしながら、そのうえ、大学での生活を営んでいた。私は、ひとり暮らしの経験がなく、また、その生活と併せている背景、「故郷とは異なる地で生きていく」こともなかった。想像するにも想像を絶する刺激が、かれらに注がれている。それ以上に考えることができなかった。ゆえに、ひたすらに強い人間だと思った。かれらを、逞しく、強靭で、またしなやかに生きている人間に見えた。同時に、私が知ることのない経験を、かれらはしているのだ、と思った。上記の、故郷から出て行くこと、知らない土地で生きていくことだ。そこには、どういった意味をもつのだろうか、と考えた。


しかし、当然ながら、わからない。当たり前だ。そもそも、他者をわかるかもしれない、他者がわからないことは痛覚だ、という考えは傲慢だった。人は皆他人であること、相手のことの少しも私はわからないこと、自分のことの少しも相手はわからないことを前提として、交流や関係が進んでいく。


それは、当然のことなのだ。私が風邪を引きかけるころに、かれらは風邪を引いていること、はたまたピンピンと暮らしていることも、私とは異なる風の吹く土地に育ち、この街で強く生きる人々がいることも。


話が広がってしまった。

 とある日、コーヒーを淹れた。コーヒーを淹れてみた、という言い方が正しいかもしれない。

日も暮れかけたころのこと。夜が片足を突っ込むころ。ふと、「コーヒーを淹れよかな」と思い立った。しかし、カフェインに弱い私が、そんな時間にコーヒーを飲んでしまったら、夜になっても眠くならないことはわかっていた。頭のなかで、「やめとけ、眠れたほうがいいぞ」と、私の内の誰かが、宥めるように告げている。私は、頭のなかで反応した。うん、わかるよ、わかる。コーヒーを飲まないほうが、今後のことを考えると、よっぽどいい。でも……。


 以降、時間を忘れて、私の内にいる者とのやり取りが続いた。こうすればいい、こうすべきだ、そうだけど、わかってはいるけど、ならすればいいだろう、なぜしない。議題がぐるぐると代わるものの、繰り広げているやり取りは代わり映えしない。ああ、だめだ。目の前の相手と会話をするように、何者かとやり取りをしているけれど、その何者かとの会話でさえも、上手くいかない。ぎこちない。会話はキャッチボールだといわれるが、その日の私は、豪速球を暴投しまくるピッチャーのようなものだ。ピッチャーで例えるならば、相手はボールをまるく投げ返すキャッチャーになるだろうが、そのような序列が出来上がっていた。なんだよ、しゃらくさいな。自分の心の中と相手しているのに、こんな気持ちになるなんて。


 心の内では、荒っぽい展開が繰り広げられていた。しかし、外部から定点カメラで覗くように、私の動きを振り返ってみれば、ただひとりの男が、リビングの椅子にしんと座り、テーブルの木目をじっと見つめながら、微動だにせず時間を流しているだけで、仰天するほどになにも起こってはいないのだ。また、頭で考えるだけで疲れ切っている……。勝手に悩み、勝手に疲れ、また勝手にしょげているのだが、それで動かなかったら、さらに悲惨になることはわかっている。ならば、もう、最初に思い立った「コーヒーを淹れる」を実行すればいいじゃないか、と言い聞かせ、台所に向かった。


 コーヒー豆の量を、少しだけ多めにしてみた。若干濃い味にしてみよう。湯を沸かす。そのうちの少しばかりをサーバーに入れて温め、残りを沸騰させていく。その時間が意外に長い。コーヒー豆の匂いが、台所の隅々まで薄く行き渡っていく。遠くにカラスの鳴く声が。静かだ。ラジオや音楽でもつければいいのだが、そのときは気が向かず、私もただ静かに湯が沸く瞬間を待っていた。

 
 ようやく、白い湯気が立ってきた。すぐにコンロの火を消し、少しだけ冷ましてから淹れていく。静かっていやだな。静かって毒だな。と心の中でぶつくさ毒づきながらも、熱湯で蒸らし、コーヒーの香りが濃く漂ってくるにつれ、心の張りが緩んでいった。ゆっくりゆっくり、時間をかけて淹れていく。中心部に小さな「の」を描くようにしていくと、薄茶色の泡がよく出て、おいしい味わいになる。と、どこかで書かれていたので、とりあえず遵守している。これまではうまくいっていたのだが、しかし、手元にあるコーヒー豆は、少し淹れ方が難しい。少しでもペース早めに水やりをしてしまうと、泡になるどころか、水たまりができてしまう。そして、これまで泡になったためしがない。地味に悔しい。地味な分野の悔しさだが、とても悔しい。だって、このあと飲む人は私だけだもの。美味しくないかもしれないものを処理するのは私だけだもの。「うわあ」と嘆きながらコーヒーを淹れるのは、わりかし哀しい作業に思える。

 
 今回は、というと、淹れているあいだは少しだけ手ごたえがあった。「これ、いけんじゃね?」とやや浮足立った。しかし、淹れ終わった瞬間に泡が急ぐように消えていくのを見て、それほどでもなかったんだな、としょげた。

 
 ひどいことをたくさん書いてしまったが、それでも、出来上がったコーヒーは愛着がある。私が淹れたのだわ、私の淹れたコーヒーなのだわ、とちょっとだけ高揚する。小さいカップに半分程度のコーヒーを入れて、ひとくち飲む。苦っ!思ったより苦い。濃いけどそれ以上に苦い苦い。すぐに牛乳で薄めた。牛乳の濃厚さは、それ単体で飲むとまったくわからない。コーヒーと和えたときに実力が見える。とっても甘く、ちょうどいい苦さになった。ああ、よかった。よかったよかった。気分も少し上向いた。

 
 当然、その日の夜はギンギンに眠れなかった。

という、ある日の話。

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