とある日、コーヒーを淹れた。コーヒーを淹れてみた、という言い方が正しいかもしれない。

日も暮れかけたころのこと。夜が片足を突っ込むころ。ふと、「コーヒーを淹れよかな」と思い立った。しかし、カフェインに弱い私が、そんな時間にコーヒーを飲んでしまったら、夜になっても眠くならないことはわかっていた。頭のなかで、「やめとけ、眠れたほうがいいぞ」と、私の内の誰かが、宥めるように告げている。私は、頭のなかで反応した。うん、わかるよ、わかる。コーヒーを飲まないほうが、今後のことを考えると、よっぽどいい。でも……。


 以降、時間を忘れて、私の内にいる者とのやり取りが続いた。こうすればいい、こうすべきだ、そうだけど、わかってはいるけど、ならすればいいだろう、なぜしない。議題がぐるぐると代わるものの、繰り広げているやり取りは代わり映えしない。ああ、だめだ。目の前の相手と会話をするように、何者かとやり取りをしているけれど、その何者かとの会話でさえも、上手くいかない。ぎこちない。会話はキャッチボールだといわれるが、その日の私は、豪速球を暴投しまくるピッチャーのようなものだ。ピッチャーで例えるならば、相手はボールをまるく投げ返すキャッチャーになるだろうが、そのような序列が出来上がっていた。なんだよ、しゃらくさいな。自分の心の中と相手しているのに、こんな気持ちになるなんて。


 心の内では、荒っぽい展開が繰り広げられていた。しかし、外部から定点カメラで覗くように、私の動きを振り返ってみれば、ただひとりの男が、リビングの椅子にしんと座り、テーブルの木目をじっと見つめながら、微動だにせず時間を流しているだけで、仰天するほどになにも起こってはいないのだ。また、頭で考えるだけで疲れ切っている……。勝手に悩み、勝手に疲れ、また勝手にしょげているのだが、それで動かなかったら、さらに悲惨になることはわかっている。ならば、もう、最初に思い立った「コーヒーを淹れる」を実行すればいいじゃないか、と言い聞かせ、台所に向かった。


 コーヒー豆の量を、少しだけ多めにしてみた。若干濃い味にしてみよう。湯を沸かす。そのうちの少しばかりをサーバーに入れて温め、残りを沸騰させていく。その時間が意外に長い。コーヒー豆の匂いが、台所の隅々まで薄く行き渡っていく。遠くにカラスの鳴く声が。静かだ。ラジオや音楽でもつければいいのだが、そのときは気が向かず、私もただ静かに湯が沸く瞬間を待っていた。

 
 ようやく、白い湯気が立ってきた。すぐにコンロの火を消し、少しだけ冷ましてから淹れていく。静かっていやだな。静かって毒だな。と心の中でぶつくさ毒づきながらも、熱湯で蒸らし、コーヒーの香りが濃く漂ってくるにつれ、心の張りが緩んでいった。ゆっくりゆっくり、時間をかけて淹れていく。中心部に小さな「の」を描くようにしていくと、薄茶色の泡がよく出て、おいしい味わいになる。と、どこかで書かれていたので、とりあえず遵守している。これまではうまくいっていたのだが、しかし、手元にあるコーヒー豆は、少し淹れ方が難しい。少しでもペース早めに水やりをしてしまうと、泡になるどころか、水たまりができてしまう。そして、これまで泡になったためしがない。地味に悔しい。地味な分野の悔しさだが、とても悔しい。だって、このあと飲む人は私だけだもの。美味しくないかもしれないものを処理するのは私だけだもの。「うわあ」と嘆きながらコーヒーを淹れるのは、わりかし哀しい作業に思える。

 
 今回は、というと、淹れているあいだは少しだけ手ごたえがあった。「これ、いけんじゃね?」とやや浮足立った。しかし、淹れ終わった瞬間に泡が急ぐように消えていくのを見て、それほどでもなかったんだな、としょげた。

 
 ひどいことをたくさん書いてしまったが、それでも、出来上がったコーヒーは愛着がある。私が淹れたのだわ、私の淹れたコーヒーなのだわ、とちょっとだけ高揚する。小さいカップに半分程度のコーヒーを入れて、ひとくち飲む。苦っ!思ったより苦い。濃いけどそれ以上に苦い苦い。すぐに牛乳で薄めた。牛乳の濃厚さは、それ単体で飲むとまったくわからない。コーヒーと和えたときに実力が見える。とっても甘く、ちょうどいい苦さになった。ああ、よかった。よかったよかった。気分も少し上向いた。

 
 当然、その日の夜はギンギンに眠れなかった。

という、ある日の話。