これからの日々のことを考えている。せめて、これまでのことではないことをしっかり考えたかった。少しは夢のある、かつ現実を見ている未来について、じっくりと思考を巡らせたかった。

 しかし、出てくるのは悲しい未来だった。真っ先に死ぬ場面を考えてしまった。誰かに見守られながらの死はあまりに考えにくい。煤けた旧いアパートの一室で、事故物件として処理されるような死に方をするか、どこかの路上で野垂れ死ぬか、そのいずれかの想像しかできない。とんでもなく暗い死に方だ。そもそも、死ぬことを未来とすることも暗いし、その内容も救いようがない。そしてあまりにも極端だ。これでは未来の自分が可哀想で、翻って今の自分にも不憫な扱いだ。

 自分のことを大切にすることは、とてつもない労力の要するものだ。なんて大変なことなのだろう。悲しいことを考えるたび泣いてしまうのは、自分自身からの暴力に心の底から苦しみ疲れているからだろうか。毎回、申し訳ない、ごめんよ、と謝りながらも、止めることなく心を殴ってしまう。心が泣いている。泣きわめいている。それでもお前は、見て見ぬふりをするつもりなのか。

 

 人は、何においても余裕があってこその生き物だ。そう痛感する。心が塞ぐとき、余裕もなにもあったものではないときは、たいてい、人の感覚は心に訴えかけない。視界に入る春の景色のひとつひとつ、おいしそうな焼き肉の匂い、川のせせらぎ、とろけるような味わい、相手に触れた感覚。それらがすべて、無に帰してしまう。心に訴えかけない以上、そのすべてが生きながらも彼方へ流されていく。意味をもって生まれてきた感覚のすべてが、愛される機会を逸して死んでいく。それが余裕のないとき、心が塞いでいるときの悲しい姿でもあるのだ。

 だからといって、「余裕を持ちたい」なんてエネルギッシュなことで文章を終えたりはしたくない。今できないものを無理に書くと、嫌悪が反動となって現れる。心がまたしくしくと泣き出す。そのようなことになるのであれば、自分にも周りにも、もっと優しい言葉で書き終えたい。

 余裕がない。悲しい。塞いでしまう。周りの喜びあふれる感覚を殺してしまう。自分を責めてしまう。そのような悲惨な感情を抱いてしまうものの、在るものを無いことにはできない。だから、もしこの文章を読んでいる人のなかに、同じ思いを抱いている人がいるとするならば、一緒に耐えよう。嵐が過ぎるのを耐え凌ごう。独りでいるよりはいくばくかの安心感はもてるはずだ。雪山のコテージのような小さな空間で、私の得意なコーヒーを温かく淹れて、何も話すことなく時間を流そう。そうやって誰かがいることを疑いなく信じることに賭けてみよう。それしかできないなら、それをするしかない。

 色づき始めるタイミングに心が間に合うことができなくても、あらゆる感覚を愛でることができたときから春だと信じたい。私だけではなく、誰かと一緒に春を待っているということも。春が来るのは並大抵のことではない。しかしいつの日か春が咲いてほしい。すべて忘れて、上書きされる馬鹿さ含めて、やっぱり自分らしいなと笑いながら、桜の並木を歩くその日を夢見ていたい。