大学へ向かう。家と大学を往復するたびに、財布が薄くなる。今日は、やはり寒かった。声を出すことにもためらう、萎むような気温。それでも、日差しは春のもので、車窓から見える風景は、暖かくやわらかなものだった。そういえば、いつから日差しが春のようだと気付いたのだろう。12月と3月、その日差しはなにが違うのだろうか。感覚的なものだとしても、そこに気まぐれさが見え隠れしてしまう。もしや違いなどないのでは、とも思える。ああ、たとえそうだとしても、今が春の日差しならそれでいい。細かいことは考えなくていいのだ。

 武蔵野の森は静かだった。大学の敷地内には、凛と佇む森がある。武蔵野をイメージしたこぢんまりとした森。私はこの森が好きだった。4年間もの大学生活には、よいこともあれば下を向くほかないときもあった。おそらく、あらゆる試練(といってしまうと大げさになるのだが)に耐えながら過ごした時間が、4年間の大半だったのではないだろうか。私の大学生活は、必ずしも楽しさ一色ではなかったように思う。

下を向くしかない、下のほか向ける場所がないときには、教室に向かう道を遠回りしてでも、武蔵野の森を通って行った。葉のさざめきだけがザアザアと鳴っている。そのほかの、大学の敷地にある生活音が遠ざかる。緑に包まれていながら、白黒のイメージが広がっていく。それだけで、どこか落ち着くことができた。しかし、こうして書いていくうちに、やはり、私は静かな人なのだと改めて思う。

 もう、頻繁に武蔵野の森に行くこともない。しきりに立ち入るようではいけない。まさか、私が卒業できるとは。安堵や感慨に浸るよりも先に、驚きがあった。留年するかもしれない、と、諦めかけていたからだ。友達との別れ、お世話になった方との別れのしんとした気持ちも大きい。ただ、「喪失」と、敢えて大きな言葉を付けてもよい別れは、あの森の、心地よく気楽でいられた空間との別れだ。

あの、ひっそりと安堵できるような場所が、新しく作れるだろうか。不安だ。もし、そのような場所を見つけたとしたら、あの森のことが記憶から薄れてしまうのだろうか。忘れてしまうのだろうか。それが健全であることは、単語として頭には入っている。ただ、もう、それでいいと言い切ることができないし、それがまたもどかしく、切ない。

 これから、あの森を避けたくなる。定期券も切れて、ますます遠ざかる感覚が迫る。何も書けないような気分になってしまう。

このところ、シクラメンを日光にあてている。部屋の中にいるだけでは腐っていくのではないか、と、不登校の子どもをもつ親のような心配をもってのこと。我が家の室内は、日の当たる時間が短い。朝も過ぎていくと、日の光が入らなくなってしまう。そのため、かれらには悪いが、寒いベランダの外に出して、太陽を浴びてもらう。

朝目覚めたころに見るシクラメンは、心なしか少し色の薄い気がする。覇気がない、と言うと少し厳しいが、ハリがみられないのは事実。一転、日の沈みかけたころ、ようやく外から持ち帰るときには、ひとふさひとふさが、ピンと背筋を伸ばした先に、色鮮やかな色を見せびらかしている。元気だ。ハリもある。イキイキしている。私は情が入りやすい人で、シクラメンのかれらにもまた、その単純なさまに、愛くるしさを感じてしまう。

 しかし、いくらシクラメンを愛でたとしても、その鮮やかな朱色に熱を抱いているとしても、ぽかぽかと暖まる陽気は一向にこない。しかも、窓の開け閉めに難がある。今日はどれほど寒いのだろう、と、部屋の窓をがらっと開けるにも、きいきいと鳴ってしまうのだ。甲高くて鋭い音が、尖った冬を呼び寄せる。この窓は、シクラメンを出し入れするときにも使うのだ。なんとかならないかな、この窓の軋み。

 早く、本来の春がやってきてほしい。ただ複雑な気分でもある。暦から見れば、くっきりと春なのだが、しかし春はまだ遠い。その季節になれば、風景がぽかぽかと柔らかくなり、花も咲き、そして、複数の強い感情が、一斉に立ち上ってくる。この、感情の面は、とても難しい。広告を見るに、華やいだ気持ちが前面に押し出されているのだが、本来はそれだけではない。喜怒哀楽、その4種のなかを行ったり来たりする感情、その往来の感情のまた細部の揺れ、と多様なことだろう。その多種多様な揺れが、がなり立てるように主張しあうと考えると、自分のことながら、大変だなあ、と他人のふりを決め込みたくなる。それほど、大変なことに思えてしまう。

暖かくなることの弊害ともいえるかもしれないが、そうなれば、厳しい寒さは、感情を締め付けるものなのだろうか。転じて、暖かさは感情を緩めるものなのだろうか。心の揺れの手なずけるやり方が、とんと分からない。しょうがないのかなあ、と呟きつつ、できれば楽しめられたらいいのに。しかし今は、せめてシクラメンでも、シクラメンのかほりでも嗅いで、ああ、シクラメンのかほりだわ、なんて思ったり。 

 少しだけ、私を可哀想で悲痛な場所に置きたくなることがある。そう感じるのは、大抵深夜を迎えたころだ。私を真っ暗な場所に落としたら、何が見えてくるのだろうか。知らない私の姿が、晒されることにならないか。その場に私が立ち会ったら、私はどこへ行ってしまうだろうか。多くのほの暗い好奇心が、止まなくなってしまうのだ。

 私は思索が好きではない。にもかかわらず、時間が空いたとなれば、あらゆる考え事に忙しない。その内容といえば、大半が空想の域だ。現実的なことなど、ほとんど「思索リスト」に入れていない。まったくわが身に降りかからないこと、到底成し得ないことばかりを頭に上らせ、一喜一憂を繰り返す。言ってしまえば、およそ時間と労力のムダなのだ。それは、夏休みの日記に悪目立ちする空白ページを埋めるべく、嘘で塗り固めた日記を書くのが楽しい小学生と変わらない。宿題が出せるだけ、小学生のほうに分があると考えれば、私の思索癖はいよいよ意味がないことがはっきりと見えてきた。

 それなのに、上記のような「書くだけムダ、さらには読むだけムダ」な文章を書き連ねてしまう。「見せるだけ、見えるだけムダ」な思索にふけることを止められない。そのことに、「なぜ?」と疑問を抱いてしまうこと、それこそがムダの思索の始まりなのだから、自分の思考回路にも隙がないのだ。ああ、疲れる。

しかしながら、「疲れる」と言っておきながら、すでにそれの考えを巡らし始めてしまった。そしてとうとう、いつのまにか、ひとつの答えが出てきてしまった。しかも、その答えがあまりにうす暗い。そもそも、だいたいの答えに、明るくなったためしがない。ならば考えなければいいのだが、考えない方法があるなら初めから考えるはずがないのだ。

この文章を書きながら、私のなかにある複雑な感情が、ぐつぐつと煮えてしまった。それは、おそらく解消には多くの時間を費やすような、「退屈」と「憂鬱」と「屈折」を混ぜ合わせたものだ。味がしないジャンクフードを食べたときの、安価な享楽にふける妥協さえ裏切られた、あの気分だ。もやもやした気分の落としどころがない。

 そこで、散歩を強く望むのだ。深夜に差し掛かり、そのような気分がせり上がったときに、歩きたい。深夜でもいい、夜が明けてもいい。ずっと歩き続けていたい。道を折れるも真っすぐ進むも、どちらでもいい。

特異な時間である夜は、すべての理性も利かなくなる。だからこそ、私は大きな期待を抱く。暗闇に隠れた身体が、心が、おそらくその黒さに恐怖しながら、どう変化していくだろうか。すべてが隠れたと思われた私そのものは、本当にすべて隠れただろうか。もし、すべて包むその黒さに安堵し、油断してしまったら、私は暗闇に掴まれ、奪われ、さらわれるのだろうか。

 なぜ、このようなことを考えるのだろう。決して何もしない。ただ考えるに留める。

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